大化の改新
618年隋から唐へ 律令制度による中央主権国家体制 朝鮮に進出
当時の朝鮮は 高句麗、百済、新羅
645年唐の高句麗遠征で朝鮮半島の緊張高まる
日本国内は蘇我氏が馬子、蝦夷と力を握る
皇極天皇の時代にあたる643年には、蘇我入鹿が、対立していた
聖徳太子の子山背大兄王を滅ぼす。
この事件がきっかけで、皇族やほかの豪族の反発が高まった。
このころ、遣隋使について中国に渡っていた留学生が帰国し、
律令制度に関する知識を持ち帰る。
帰国留学生の一人が中臣鎌足、(後の藤原鎌足)で、蘇我入鹿に反発していた
中大兄皇子と図り、蘇我蝦夷・入鹿を討った。
これが645年の乙巳の変ですね。
叔父の孝徳天皇をたてた中大兄皇子は皇太子に、
中臣鎌足が内臣(うちつおみ)となって実権をにぎり、
帰国した僧旻と高向玄理(たかむこのくろまろ)を国博士に任じ、
大化という年号を定めた。
645年、国内初の年号の大化が制定されます。
646年には改新の詔が出されます。
- 公地公民制&豪族には食封
- 中央(京、畿内)と地方(郡)の行政区画の策定と軍事・交通制度の整備
- 戸籍・計帳をつくって人民を登録し、班田を行う
- 新しい調などの税制の制定
の4つがその内容でした。
改新の後、孝徳天皇と中大兄皇子は不仲になり、
孝徳天皇は、当時都のあった難波で病死します。
孝徳天皇子の有間皇子は謀反の咎で処刑されます。
朝廷内部の不和や分裂が続いていたんですね。
孝徳天皇のあとを継いだ斉明天皇は、
公共事業や安倍比羅夫による蝦夷遠征などを行いました。
えらい金がかかりそうですね。
そうすると、財源を提供してくれる農民は、
負担も相当だったのでしょう。
このころ朝鮮半島では、新羅が統一を進めます。
唐と結んで、660年には百済を滅ぼしました。
百済と関係の深かった朝廷は、唐や新羅に抵抗する百済の残存勢力を
救援するために援軍を送ります。
こうして、663年には白村江の戦いが起こりました。
唐と新羅の連合軍に負けたことで、朝鮮半島での日本の勢力は
すっかり消え去りました。
高句麗も668年には滅ぼされ、朝鮮半島は新羅が統一したのでした。
朝鮮半島で敗北したことを踏まえ、新羅や唐が攻撃することを考慮し、
中大兄皇子は、大宰府に水城と山城を築きます。
対馬と筑紫には防人を置きました。
667年には都を近江大津宮に遷します。
“百人一首1番歌 秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ” への1件のフィードバック